あたしには、たくさんの思い出がある。
家族と過ごしたり、友達と遊んだり、そんな幸せな思い出をあたしはたくさん持っている。
だけど多くの思い出は、時間とともに陰ったり、色あせたりして、少しづつだけど消えていってしまう。少し悲しいけど、それは前に進もうとするあたしたち人間の代償と言うやつなのかもしれない。
でも、一つだけ、いつまでも色あせず、あたしの中に残るものがあるとしたら、それは何だろう?
『俺たちだけの卒業式をやろう』
脳裏に浮かんだのは必死に立ち回るあいつの姿。
ドラマみたいなあいつの提案であたしたちはもう一度あの学校に集まった。
みんなで会えた、奇跡のような一日。
見事に咲き誇る桜の下、渚はあいつと一緒の卒業式を迎えた。
幸村先生からの卒業証書を大切に抱えての答辞をした。
涙を流して、それでも満足そうな、笑顔を浮かべていた。
渚を見守るあいつの顔には、あたしには見せたことないような笑顔があった。
二人で手を繋ぎ、ゆっくりと、桜の坂を下っていった。
もう、見ることは叶わない光景。
だけど、消えることのない記憶。
それが、あたしの目に焼きついた二人の最後の姿だった。
いつかみた桜風
しとしとと降り続く雨。
あたしの目に入ってきたのは灰色の四角い景色。
昨日から降っているというのに、まだ降り足りないんだろうか。雨は、延々と降り続いていた。
「……よく降るわね」
幼稚園の花壇に咲いているアジサイだけがこんな雨を喜んでいるようだった。
いっそのこと、台風でも来て、明日の幼稚園を休みにしてくれたらいいのに。
でもそれはあたしの勝手な願望でしかありえなくて、神さまが聞いてくれるはずもなかった。明日の予報は見事な梅雨の晴れ間だという。
「嫌がらせとしか思えないわね」
どうせ明日は気分が沈むと決まっている。
だったら、せめて空に代わりに沈んでもらおうかと思ったけど、そんなことで気分が晴れるわけもなかった。
「はぁ……」
あたしの手元にあるのは一枚の紙切れ。
『父親参観のお知らせ』
今日、何度目だかわからないため息。
それは見る度に大きくなる気がした。
『お父さんの似顔絵を描きましょう』
次々と、嫌な感情が溢れてくる。
こんなところだけは自分で自分のことを好きになれない。
『お父さんへの感謝の気持ちを込めて』
こんな企画、各家庭でやってよね……。
似顔絵を描かせようなんて、悪趣味だよ。
「父親、か……」
誰かに聞いてほしかったわけでもない。
それでも、ふと出た言葉は小さすぎたのか、雨の音に紛れて消えた。
渚の死からあいつの時計は止まったまま。
明日来ないのは目に見えていた。
三時の針が回る頃、いつものように子供たちを迎えに来る母親たちが現れる。
そんな母親たちに混ざり早苗さんが姿を見せた。若い母親の中に一人祖母がいるというのに、全然違和感がないのは流石というべきか。
「杏先生、今日もありがとうございました」
「こんにちは、早苗さん」
決まりきったセリフの後、あたしは汐ちゃんを呼び、早苗さんが来たと声を張り上げる。
「汐ちゃんっ 早苗さんが迎えに来たわよっ」
が、無反応。他の女の子たちとのおままごとに夢中らしい。
近づいて呼ぼうかと足を進めたあたしの肩を、早苗さんが軽く叩く。
「杏先生」
「はい?」
「……明日のことですけど、いいですか?」
「……」
自分では敬遠していたことだった。
早苗さんの顔は真剣そのものだった。
「来ますよね、あいつ」
少し冗談めかして笑って見せたけど、早苗さんの顔に変化は見られなかった。
段々勢いがなくなる自分の声にも、情けない気持ちでいっぱいになる。
「わかりません。何度も、呼んでるんですが……」
笑って、“来てくれますよ”と言ってくれるのを期待していた。
けれど、早苗さんは、無責任な期待を寄せるなんてことはしない。固まったその表情を変えることはなかった。
子供たちのいる教室から雨足の聞こえる廊下へ出て、話を続けた。
「早苗さん、秋生さんに来てもらうとか、できないの?」
幼稚園の先生という立場も忘れて、訊いていた。
事前の出欠連絡なら受けている。明日父親が来ないのは、岡崎汐の保護者だけだった。似顔絵を描くという企画より、いっそ参観日そのものを中止にしてしまいたかった。
「杏さん」
「……?」
「汐の父親は朋也さんだけです。顔を出すだけなら秋生さんも行ってくれるとは思います。だけど、秋生さん自身の似顔絵は描かせたりはしてくれないと思います」
馬鹿なことを訊いてたんだなって、思った。
「ごめんなさい……」
「いえ、謝らないでください。杏さんの気持ちはよくわかりますし、とても嬉しいです」
だけど、それはつまり、明日の汐ちゃんの所には誰も来てくれないってことだ。
そんなのってない……。だって、明日ぐらいでしょ? 汐ちゃんが胸張っていられるのって……。
「あいつ、どうしても来ないんですか?」
「……」
あいつが、ちょっと顔をだして汐ちゃんの前で座るだけでいい。それだけで、汐ちゃんは喜んでくれるはずだ。
あたしも早苗さんも、こんなにも悩む必要はない。だけど、早苗さんの顔にいつもの色が戻ることはなかった。
「あの……明日は無理して来なくてもいいですよ? 来ても誰もいないなら……汐ちゃんには辛いだけですから……」
「……でも、わたしはそれでも、もしかしたらって思ってるんです。だから……だから……」
一瞬の、だけども深い沈黙。
それでも……
「それでも……来てくれなかったときは、汐のこと……よろしくお願いします」
……それを考えなければいけないのが、あたしたちに突きつけられた現実だった。
「……」
なんて答えてあげたらいいんだろう。
深々と頭を下げる早苗さんに、“任せて”なんて、あたしに言えるんだろうか。
まるで、今の自分の顔を見てほしくないから頭を下げている、そんな早苗さんにあたしはどんな声を掛けられるっていうんだろう。
「さなえさん?」
「……汐、今日もいい子にしていましたか?」
「うん」
結局、教室の窓から顔を出した汐ちゃんの声で、あたしの答えは出されないまま終わった。
汐ちゃんの手を引く早苗さんの後姿が、降り続ける雨のせいで、少し、泣いているみたいに映った。
決して涙を見せないからこそ、決して弱音を吐かないからこそ、その背中で涙を流してるみたいだった。
早苗さんも秋生さんも行きたいに決まってる。
寂しい思いなんて、こんな小さい子にさせたくない、そんなこと、この二人が一番感じていることのはずだ。
それでも二人はあえてそんな選択を五年も続けている。
だけど、あたしに一体何ができるっていうんだろう。
お願いされたって、あたしは汐ちゃんの担任であって、それ以上でもそれ以下でもない。
そんなあたしが汐ちゃんに何をしてやれるというんだろう。
長く、深い沈黙。
その先に、答えはなかった。
§
早苗さんが帰った後、あたしは職員室に戻った。
カバンの中にしまった自分の手帳を開き、そこに挟まったものを見る。
思い出されてしまうのは、あの日の卒業式。
“負けてられない”
それがあの日卒業式を見送ったあたしの決意だった。
あいつらに負けないくらい、あたしも幸せになってやろう。
いつしかあたしの目標となっていたはずの二人。
だけど、それはもう、なくなってしまっていた。
渚はもう帰って来れない世界に行ってしまった。
あいつはどこか遠い世界に行ってしまった。
この世界に残されたのは……たったひとりの少女だった。
(もう、取り戻せないのかな? あいつはもう、帰ってきてはくれないのかな……?)
仕事場か自宅に電話でもして呼び出してやろうか。
こっちはちゃんと連絡先も知っている。
個人名簿という便利な書類。
それで、あたしが引きずり出してやるんだ。
「……」
めくったところで手が止まる。
わかってる……そんなことをしても、あたしの声は届かないってことくらい。
汐ちゃんの個人名簿に書かれたあいつの名前。
本人との関係――父。
早苗さんが書いたのだろう、綺麗な字ではっきりと書かれていた。
誰でもない、汐ちゃんの父親はあいつしかいない。
だけど、どうしたらあいつは帰ってきてくれるんだろう。
何度考えても浮かばない答え。
あたしはそのまま握り締めた名簿を閉じた。
§
翌日。
天気は晴れ。
見事な雲ひとつない青空。
神さまというやつを、呪った。
そんなに晴れて、何が嬉しいの?
あんたさ、昨日、一昨日と雨降らして悲しんでたんじゃないの?
それが今日は何? こんなに晴れちゃってさ、晴れなら、あいつは仕事に行っちゃうんだよ?
それくらい、考えなさいよ。
見なさいよ。
たくさんのいい大人がさ、いい歳して馬鹿みたいにニヤけて自分の子供見てるじゃない。
どこにも、どこにもないじゃない。あの馬鹿の顔……。
テーブルに座る子供たち。
キョロキョロと後ろを向いては手を振る。
あたしの声のどれくらいが聞こえているんだろう。
はしゃぎたいのを我慢しているような、それでいて、隠しきれてない笑顔。
何度も、何度も、振り返っては笑う、その繰り返し。友達同士で互いの父を自慢しあう。
そんな中、汐ちゃんは後ろを一度だけ振り返り、それっきり、下を向いた。
「今日は父親参観日です。お父さん方、忙しい中わざわざ来て頂きありがとうございました」
何とか、振り絞り出してきたあたしの言葉。
でも、出せたのはそれっきり。
(今日は父の日が近いということですので、みんなのお父さんの似顔絵を描きましょう)
頭の中で反芻された言葉。
のどが熱くて出てこない。
何の対策も浮かばないまま、どうしていいかもわからないまま、あたしは残酷なことを言おうとしている。
(……言えるわけないじゃない…)
結局、あたしの異変に気づいた先輩の先生が言ってしまっていた。
さあみんな、お父さんの絵を描きましょう、と。
嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに「はーいっ」って、返ってきた。
「どうしたんですか、杏先生?」
「……っ」
子供たちは席を立ち、それぞれの父親の元へ行く。
人が行き交う。
立ち止まる彼女に声をかける子供はいなかった。
いや、いたとしても、それはどんな言葉なのか。
気がつけば、汐ちゃんの姿はなかった。
また、トイレだろう。
それが行き先だとわかってしまう自分が、とても嫌だった。
教室を出て、少し走った先にトイレはある。
「ゴメン、ここ、お願い」
「ちょ、杏先生っ?」
同僚にこの場を無理矢理押しつけて、あたしは教室を出ていた。
行って何をしようというんだろう。
抱きしめる? 抱きしめたら、汐ちゃんは泣いてくれるんだろか。
あたしなんかに抱きしめられて、安心して泣いてくれるんだろうか。
わかってる……あたしにはできっこないって。
だけど、何もしないでただ目を赤くして帰ってくる汐ちゃんはもう見たくない。
何でもいい、何でもいいからっ…って、走り出していた。
だけど、あたしはトイレの前で立ちつくした。
教室を出たときの勢いが崩れていくのが実感できた。
そこから先へは進めなかった。
いや、進ませてはもらえなかった。
それはあたしの足を震わせて、立ちすくませてしまった。
聞こえてくるのは微かな嗚咽。
弱々しく必死で声を押し殺した、小さな小さな泣き声。
静かで、彼女とあたし以外に誰もいないトイレの中、それはこだまして、よく聞こえた。
「……」
あぁ、無力だ。
何もできない。
何でもいいから、そう思っていたけど、本当に何もできない。
止めどなく、トイレから漏れた嗚咽があたしの耳に入ってくる。
止みそうもなかった。どう止めたらいいのかも、あたしにはわからなかった。
最後まであたしは…その嗚咽を聞いてやるしかできなかった。
あたしは、ずっと立ちつくして、彼女の泣き声が止むのを待った。
振り返ってみれば、あたしの人生はあまりに普通すぎた。当たり前の幸せが、当たり前のように転がっていた。
学校に行けば友達がいた。自然と周りに友達がいた
体も健康だった。一年に一度、風邪をひくかどうか。
高校も第一志望に入れた。留年なんて想像もしたことがなかった。
大学も、就職も、人より多く努力して、その努力に見合った対価を得た。
それは大変だったけど、でも、報われたあたしはやっぱり幸せ者だ。
じゃあ汐ちゃんは……不幸なの?
あたしより、不幸な子なの?
自分の胸に聞いてみる。
答えはすぐに出た。
……違う、って。
幸せの比較なんて、意味ない。
大事なのは、汐ちゃんが、今笑えるかどうかだ。
「……」
風が吹いた気がして、顔を上げた。
遠くからは、教室の喧騒も聞こえた。
聞こえてくる微かな泣き声はすでに止んでいた。
トイレの先にある鏡と、そこに映った自分の顔に気づく。
酷い顔をしていた。
「……」
しばらく考えて…単純すぎる答えが出た。
あぁ、そうだ。
笑おう…って。
「汐ちゃん」
「……?」
トイレの個室。扉は閉まったままだった。
「ドア、開けてくれないかな」
「……やだ」
「大丈夫、教室には行かなくていいから」
「……」
ゆっくりと、扉が開く。
目は真っ赤だった。
「パパのこと、好き?」
「……」
「うん?」
笑えてるかな、あたし。
「先生に教えてくれないかな?」
笑えてると、いいな。
「……わからない」
顔を伏せ、一言だけ、弱々しくそれだけを告げる。
それでも答えてくれことが嬉しかった。
「じゃあ、パパの絵、描きたい?」
「……でも」
「教えて? いるとかいないとか関係なし。汐ちゃんも描きたくない?」
パパに絵を描いて贈りたい、みんなにとって、簡単なこと。
だけどそれは、誰にでも当てはまることじゃない。
「……かきたい」
小さな小さな願い事。
ただ、パパの絵を描いて贈りたい。
「じゃあ、描こっか」
「……?」
伏せていた顔が持ち上がり、不思議そうな目線をあたしに送る。
あたしは汐ちゃんの手を引き廊下を歩く。
叶えさせてあげたかった。
汐ちゃんの寂しさ、それを全部補うなんて多分あたしにはできない。
それはあいつにしかできないことなんだと思う。
だけど、せめてこれくらい、叶えさせてやりたかった。
人並みに絵を描いて、パパの喜ぶ姿も一緒に描いて、それを贈りたい。
そんな、小さな願い。
「おいで」
何もできなくたって、自分が無力だってわかっていたって…
それでも…このまま何もしないなんて、自分が許せなかった。
着いたのは職員室。
そこにある自分のカバンから手帳を取り出す。
挟まっていたのは、一枚の写真。
「ほら、ここの真ん中にいる人、この男の人…わかる?」
「パパ?」
「うん、正解」
そこに写っていたのは馬鹿みたいに幸せ面してるあいつの笑顔。
今も頭に浮かぶ、あの日の光景、みんなの声、今も色あせず残ってる。
あの日の桜は、本当に綺麗だった。
あの時は、みんなが傍にいた。
みんなで拍手して、みんなで校歌を歌って、みんなで祝福をした。
この写真には残せなかった、みんなの声。
あの光景は消えることなく、今もまだ残ってくれている。
『なぁなぁ、折角の卒業式だぜ? 写真撮らない? みんなでさ』
学生時代と何も変わらない陽平の声。
『それはいい考えですっ』
嬉しそうに一緒に撮ろうと言う椋の声。
『へぇ〜、たまにはいいこと言うじゃない?』
この日以来、聞かないんじゃないかってくらい、一番元気だったころのあたしの声……。
『よっしゃ! じゃあお前らっ 集まれ!』
『渚っ、ほら真ん中真ん中っ』
一番長く渚を見守ってきた二人の声……。
今はただ…もう一度聞ける日を待つばかりの声……。
『いくぜっ! せーのっ!』
シャッターが切れるまでの数秒間、聞こえてきた――
『渚…卒業おめでとう…』
『……はい…ありがとうございます…』
もう一度だけ聞きたい、二人の声……。
みんな…覚えてるよ…。
「うん、パパ。これがあれば、描けるよね?」
「うんっ」
まだいくらか弱さの残る声がした。
だけど、ほんの少しだけ見えたのは、汐ちゃんの小さな笑顔。
「いい子だね、汐ちゃんは」
あたしができることなんて、これくらいしか思いつかなかった。
こうして、あの時の、みんなの力を借りるくらいしか。
笑って、汐ちゃんの頭を撫でてあげるしか、なかった。
これでいいのかどうかも、正直わからない。
本当はみんなと一緒にパパを描きたいよね。
こんな職員室の片隅なんかじゃなく、堂々、みんなと一緒に描きたいよね。
汐ちゃんのパパ、カッコいいね、ってみんなから言われたいよね。
パパ、いつもありがとうって、そして、一生懸命描いた絵を贈りたいよね。
でも、それは今は叶わぬ願い。
この絵が、あいつの目に留まるのかどうかも、正直怪しい。
本当に、何もできないことが辛くて仕方がなかった。
けれど、何もしないで待つだけなんて嫌だった。
そんなんで、いつかあいつが帰って来たとき、心から喜べるわけがない。
あいつが帰ってくることを、心から祝福できるように。
頑張ったねって、背中を叩いて上げられるように。
あたしは、今できる精一杯をやりつくしたい。
「せんせい」
「できた?」
「もうちょっと」
出来上がった汐ちゃんの絵に描かれたのは、あいつと、渚と、みんなの姿。
そして、二人の間にそっと描き加えられた子供の絵。
思わず、笑みがこぼれた。
いつかまたこんな風にみんなで笑える日が来るんだよね?
こんな風に、笑いかけてくれる日が来るんだよね?
そこに渚はいないけど、だけど、その時は汐ちゃんがいる。
汐ちゃんの隣には……きっとあいつがいる。
きっとまた、こんな絵のような光景がくる……それくらい期待したって許してくれるよね?
あの坂の桜は毎年咲くから。
あんたさえその気になれば、またこの絵みたいに、みんな集まってくれるから。
あたしは、それだけを願うから。
だから、早く帰ってきなさい、朋也。
せんせい、できたっ
じゃあ、みてもいい?
うんっ
汐ちゃんの描いた世界。
その世界を彩るのは満開の桜。そして、満面の笑顔だった
終わり